【ネタバレ】The Last of Us PartⅡ

 

The Last of Us PartⅡ』のネタバレありでの記事です

プレー中、この先プレーする予定の方はご注意ください

 

 

 

 

 

 

・ジョエルとエリーの物語はこれでお終いです(2013年発言)

 

世界的な評価を受けた前作の『The Last of US』。

続編の可能性について問われたノーティードッグはかつてこう答えた。

 

『ジョエルとエリーの物語はこれでお終い』

 

事実上の続編は作らないとの宣言。仮に作られるとしても世界観を同一にした別の物語であるとの言葉だった。

傑作であった『The Last of Us』に続編が出ないこと、エリーとジョエルの活躍がこれ以上見られないことは残念だったが、事件に決着をつけ、ひとときの安息を手に入れたエリーとジョエルがこの世界でこれ以上苦しむことはないと安堵したのも事実だった。

 

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『Last of Us』におけるジョエルとエリー

 

創作において描かれないことはその世界に存在しないことと等しい。もしくはあらゆる想像が許容される。たとえ、この苦しみと争いに満ちた世界でもエリーとジョエルがお互いを大切に思い、絆を深め幸せに暮らしていったという都合の良い物語でも。

 

しかし、まさに続編にあたる『The Last of Us PartⅡ』が登場することでノーティードッグの発言は否定されることになる。いや、否定ではなかった。思いもよらぬ形でこの発言が正しかったものと思い知らされる。

 

 

・ジョエルとエリーの物語の終焉

 

The Last of Us PartⅡ』はエリーの復讐の物語であると宣伝された。パッケージも血を流し鬼気迫る表情でこちらを睨めつけるエリーのドアップ。

 

物語の冒頭でジョエルはアビー率いる謎の集団に暴行され、惨殺される。

PartⅡ』の登場で反故にされたと思われた「ジョエルとエリーの物語はこれでお終い」の言葉は果たして正しかったことが証明された。前作の主人公であったジョエルの死によって。ノーティードッグの宣言通り、この先、ジョエルとエリーの物語が紡がれることはなくなった。ジョエルに会えるとしてもエリーを通してエリーの中のジョエルが描かれるときだけだ。

 

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ギターを弾くジョエル

 

エリーの旅立ちはジョエルの復讐を遂げるために始められる。

誰もが衝撃を受けた「ジョエルとエリーの物語の終焉」の禊として。

 

 

 

・エリーとしての復讐とプレイヤーとしての復讐

 

わだかまりはあったもののエリーにとって大切な存在であったジョエルの仇、特に手を下したアビーはエリーにとって生きていてはならない敵であり、それはプレイヤーにとっても同様だ。ジョエルは前作で終始操作を行った、いわばプレイヤーの分身であり、本作では感染者の群れから身を挺してアビーを守ったナイスガイだ。仮にジョエルに思い入れがなかったとしてもアビーは受けた恩を下劣な手段で返した外道であると位置づけられている。

エリーとプレイヤーの動機付けは完全にシンクロし、アビー許すまじ、一団であるWLF(ウルフ)許すまじと復讐の旅へ駆り立てられる。

 

エリーとプレイヤーのモチベーションのシンクロ。これこそがゲームへの情熱を駆り立てるドリブンであったが、物語を進めるにつれ、シアトルでアビーとWLFを追いかけるにつれ、雲行きが怪しくなってくる。不倶戴天の敵であったWLFは生き延びるために色々な作戦行動をとっており、スカーと呼ばれる謎の宗教集団に手を焼いていて、復讐の対象の一人はスカーの手により無残な死を遂げている。加えてエリーのパートナーであるディーナの妊娠の発覚。復讐心を抱き、ただただ前へ突き進んできたエリーが逡巡する間を持つのも無理はない。

 

しかし、プレイヤーはどうか。エリーがWLF兵もまた生きた人間であると感じ、パートナーであるディーナの迷いを歯がゆく思ったとしても、プレイヤーにとってWLFの兵士はいかに倒れた仲間の名前を叫ぼうとただのデジタルなモブであり、ディーナに至っては突如現れてエリーの愛を一身に受けるばかりか物語をかき乱す迷惑な存在でしかない。復讐の道を突き進みたいプレイヤーにとっては復讐以外のことに心を寄せるエリーの動揺自体が疑問となる。ここでエリーとプレイヤーの間に心理的な乖離が生まれ始める。

 

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シアトルでのエリー

 

情報を得るために仇の一人を自らの手で拷問したエリー。心優しい彼女は心を痛める。勢い余ったばかりか知らなかったこととは言え、妊婦を殺してしまったことに強烈な自己嫌悪を抱くエリー。しかし、プレイヤーがそんな彼女の“迷い”、“後悔”に本当の意味で共感するのは極めて困難だ。なぜならエリーが復讐に疑問を持つに至ることになった手をかけた彼ら彼女らはエリーがそう思うように配置されたキャラクターにすぎず“エリーが後悔するために”、仲間思いであり、可哀そうな背景を持ち、さらには“妊娠させられていた”のだから。

妊婦であるから殺しを後悔する、仲間思いなら殺さなければよかった。人間であれば誰しも自然に思うことである。しかし、だからこそ本作品が提示したい“復讐の行きつく先”というお題目のためだけにそう設定された、身もふたもない言い方をすれば死んだキャラクターであることを色濃く反映する。

 

 

 

・復讐の漂流

 

本作は復讐の入れ子構造を持った作品だ。アビーにとってはジョエルが親の仇であり、エリーとプレイヤーにとっては復讐を果たしたアビーがジョエルの仇である。そしてアビー一派への復讐の過程にあり、殺戮を繰り返してきたエリーはアビーにとって新たに復讐心を抱くにふさわしい存在となった。正しく、憎しみの連鎖が達成されている。果たしてこの憎しみの連鎖は断ち切ることができるのか。

 

エリーの旅の終わりの近くで仲間を殺してきたエリーの前に再び立ちはだかるアビー。アビーによりエリーの仲間であるジェシーは射殺され、ジョエルの弟のトミーは組み伏せられる。当のエリーはアビーに銃口を向けられ絶体絶命の局面だ。すべてはエリーの復讐の旅がもたらした結果だ。不毛な復讐の旅路はここで終わるのか…と緊迫したところで、このゲームは信じられない展開を果たす。

 

操作キャラがエリーからアビーに切り替わり、仇であったアビーの過去とシアトルでの道程をプレイヤーに追体験させるのだ。しかもかなりの長尺を操作させることで。ボリュームとしてエリー編に引けを取らないくらいの分量で。

 

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存在さえ伏せられていたアビー編

 

「復讐する側にも事情はあり、大切な仲間が存在する。復讐は許さるのか?」そんな言葉にするには余りにも陳腐なメッセージをプレイヤーに追認させるためにプレイヤーに操作を強制する。これはゲームを購入し、最後までやり遂げたいと思っていたプレイヤーの意欲を人質にとるような行為であるように私は受け止めた。もっと言えば「小賢しい」手法であるように思う。

 

ゲームというメディアがストーリーを手厚く語るようになってなお映画や小説と明確に一線を画す点が存在する。それは、あくまでゲームはプレイヤーが操作するメディアであるという点だ。プレイヤーが操作するものだからこそプレイヤーはキャラクターに愛着を持ち、画面内のキャラクターの挙動に感情移入し一喜一憂できる。映画での暴力シーンは平気でも自分がキャラクターを操作して無意味な暴力を振るうことに嫌悪感を抱く人は少なくないだろう。こんなバイオレンスなゲームで上げる例としては不適切かもしれないけど。

 

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完全に余談だがGTA5のトレバー編は苦痛で仕方なかった

 

プレイヤーにとって憎しみの対象であるアビーを操作しなくてはならないのは苦痛の時間だ。しかも、プレーを通してアビーは愛しうる魅力的なキャラクターと判明する。だからこそ、愛着をもってしまうことに戸惑い、ジョエルの仇であるからこそアビーの魅力を知ることに罪悪感すら抱いてしまう。父との幸福な時間を過ごしていた可憐な少女であったアビーを知った今ではベンチプレス85㎏を持ち上げる太い上腕二頭筋ですら愛おしい。太い腕は彼女の懊悩とそれを乗り越えようとした努力の証でもあるのだから。ゴリラと揶揄される『Horizon Zero Dawn』の主人公アーロイ顔負けのゴリラであった憎きアビーのゴリラ加減がこんな評価になるとは自分でも驚き。

 

しかし、アビーが仲間思いであればあるほど、組織を追われた姉妹に向ける優しさを覗かせるほどに私は彼女を魅力的と思うと同時に冷めていく自分を自覚する。彼女の愛すべきキャラクターがエリーにプレイヤーに復讐をためらわせるための舞台装置でしかないことが証明されていくから。察するべき事情がある、復讐をすべきでない事情がある。それらは描写すればするほど、復讐の不毛さとを訴えかけることとはかけ離れる。言ってしまえば単純に可哀そうな奴は殺すなということでしかなくなるのだ。これは逆説的に共感できない奴なら殺していいよというメッセージを発信していることにはならないか。エリーやアビーが殺してきたモブの兵隊のように。掘り起こせばモブの彼ら彼女たちにも大切な人は存在し、死を悼む仲間もいるはずなのに。

 

アビーが高所恐怖症設定を持ち、パートナーであるレブに励まされるシーンなんていかにも「彼女にもこんなかわいいところがあるんですよ」と言いたげだ。実際かわいげを感じる場面ではある。

 

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レブに励まされるアビー。意図的に設定された彼女の弱みだ

 

復讐をためらわせる正当性を持たせるためにゲームメディアの特性を利用している点、神の視点を持つ作り手のさじ加減でどうにもなる同情すべき設定を記号的に配置している点、この2点で私は『The Last of Us PartⅡ』のこの構造に嫌悪感を抱かざるをえなかった。

 

 

・セカイからの望まない帰還 

 

前作『The Last of Us』の結末はゾンビウィルス(便宜上こう呼ぶ)の抗体を持つエリーの命と引き換えに世界を救うことをジョエルが拒み、エリーとともに生きていくことを選択するものだった。世界を救うことと一人の少女の命を守ること、両者を天秤にかけてエリーを守ることにしたジョエルの選択は苦楽を共にしたプレイヤーですら簡単には理解できるものでなく、実際そのラストを受け入れられないというプレイヤーの意見もあった。

ジョエルは若いエリーと違いウィルスによって崩壊する前の世界を知る人間だ。崩壊後の世界と崩壊前の世界の両方を知り、それでもエリーを守ることを選択したからこそこの決断は重たい。実の娘を失い、それでも生き永らえていたジョエルは大切な物を失いかなぐり捨ててまで得る世界の救済。そこでの人生になんの価値もないことを知っていた。

 

ジョエルの決断はこの世界を生きる誰にも理解されるものでもないし、許されるものでもない。命を救われた当のエリーにとっても。しかし、ジョエルを自身の分身とし、実の娘とエリーを重ねてきた彼の気持ちを知るプレイヤーだけは違う。“わかるよ。お前ならそうする”そんな声をかけられるのはプレイヤーだけであり、世界の敵であることを選んだジョエルと共犯関係でありえた。

 

世界を取り巻く大問題よりもジョエル・エリー・プレイヤーの心情や関係性に重きを置き、エンディングではそれを証明する決着となった『The Last of Us』はいわゆる“セカイ系”の類型と言えるタイトルだった。

 

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エリーに救われたジョエル。ジョエルに救われたエリー

 

そして本作『The Last of Us PartⅡ』ではジョエルはエリーを救った決断により、その報いを受ける。これはジョエルの前作でのありえない決断を受け入れられたプレイヤーに対する裏切りでもある。ジョエル・エリー(そしてプレイヤー)でおさまっていた物語の解像度を一気に一般レベルにまで引き戻しセカイ系なセカイから世界へ引き戻した。

 

ジョエルの衝撃的な死は多くのゲームファンにネガティブな反応をもって迎えられた。これは単純に人気キャラクターを死なせたというだけでなく、彼の死が前作の否定に、ひいては釈然としないながらもジョエルの気持ちを汲んで理解するに至ったプレイヤーの気持ちをないがしろにするものでもあったからに思う。

 

 

・エリーの赦しの物語としての『The Last of Us PartⅡ

 

 ジョエルの決断が報いを受けることはエリーにとってジョエルの死という現実を超えて残酷だ。なぜならジョエルが報いを受けることは抗体を持ちながら生きているエリーの存在自体がこのウィルスの蔓延する世界においてあってはならないことを彼女に再認識させることだから。エリーはエリーがこの世界で生きている限り自身を呪い、感染者の犠牲になる仲間を見るたびにそれを実感しなくてはならない。ジャクソンから抜け出しウィルスのために命を落としたかつての仲間をみた彼女の苦悩はいかほどのものであったか。

 

生きていること自体が罪と感じるエリーは自身の生を呪わざるを得ない。生きていくためには世界の救済を選ばなかったジョエルを憎まざるを得ない。しかし、憎むべき存在であるジョエルはまた彼女にとっても大切な存在でもあり、その矛盾が彼女を引き裂いてしまう。

 

ジャクソンのパーティーでエリーに絡むセスの間に割って入るジョエルにエリーは「助けてなんて頼んでない」と激昂する。この怒りは「あたしは自分の命よりも世界を救ってほしかった」という怒りの表れではないか。 

 

「ジョエルのことは許せない。でも許したいとは思ってる」

 

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エリーの苦悩

 

許せるはずのないジョエルを許したいと望む、これは自身の存在自体が罪であると考えるエリーにとって偽らざる本心だろう。ジョエルを許すことは彼女自身の生の肯定に他ならない。ジョエルの和解とともに彼女の人生は新たな歩みを見せるはずだったがそれはジョエルの死によって永遠に失われた。

 

エリーの復讐の旅はジョエルに対する償いでもある。「ジョエル最後まで許してあげられなくてごめん。ジョエルを殺したあの女はあたしが絶対に殺すから」というものだ。しかし、アビーを殺し復讐を果たしたとしてもそれはジョエルを許せなかったことに対する償いでしかなく、エリーがこれからの人生を生きるためにしなくてはならないジョエルの行為に対する許しとはなりえない。

 

では、エリーは永遠に罪を背負いこの世界を生きていかなくてはならないのか。

個人的な見解だが、エリーはエリーなりにジョエルへの償いを果たし、許すことを選択できたと思う。

 

 

・復讐の対象としてのアビー、許せない存在であるアビー

 

アビーに殺されたジョエルとジョエルを殺したアビー。二人には物語上、大きな共通点が存在する。それぞれ理由は違うものの両者はエリーにとって許せない存在ということだ。

物語の最後においてエリーは執着の対象であったアビーを自身の手で殺す機会をついに手にし、煩悶の末、アビーを見逃すことを選択する。アビー編を長く操作したプレイヤーにとってそれぞれ差異はあれどアビーを殺したくないまたは殺さなくてもいいかなという理由は存在する。まあ存在しないこともない。

 

しかし、エリーにとってアビーへの復讐を迷う理由はこれ以上自分の手を血で汚したくないという暴力への忌避や世界からは決して許されない存在としての自身に対する後ろめたさ以外のものはない。一度は復讐を諦めたエリーが手に入れていたディーナと赤ん坊との平穏な生活を振り切ってまで復讐の旅に再び赴いたのはなぜか。それはエリーの人生において大切であったジョエルとの関係の清算がアビーとの決着をなしには果たせないからだ。

 

依然として殺さなければならない許せないアビーであったが、エリーは遂にアビーを殺さなかった。エリーがアビーを殺さなかったことについて大きな批判があるようだが、私はこの結末はビターではあるが重要なものを示しているように思う。前述のようにジョエルとアビーはエリーにとって許せない存在である。その許せないアビーをエリーは許すことを選択した。それはジョエルに対してエリーが人生をかけて飲み込み絞り出すはずであった「赦し」そのものではないか。クライマックスでアビーの首を絞めるエリーに去来するギターを弾くジョエル。最後まで許すことができなかったジョエルと今まさに自分の手で命を落とそうとしている許せないアビー。そのアビーを許したことでエリーはジョエルへの許しの仮託としてついにトラウマを乗り越え、世界を救えなかった自身の存在を肯定する第一歩を踏み出せた。

 

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エリーの脳裏に去来する在りし日のジョエル

 

エリーがジョエルに対するわだかまり清算し、新たな人生を歩む決意を持てたことはエピローグでジョエルそのものの象徴であるギターを置いて旅だったこと、エリー自身が利き手の指の欠損によってギターをかつてのように弾けなくなったシーンを見るまでもなく明らかだ。

 

批判の多い『The Last of Us PartⅡ』のシナリオにおいて、エリーのアビーに対する許しが単なる復讐の連鎖の断絶にとどまらず世界に対して罪を抱えたジョエルとエリーの赦しにつながったと言えるこの流れは素晴らしいと言える点だ。

 

 

・『The Last of Us PartⅡ』総評

 

The Last of Us PartⅡ』は正しく『The Last of Us』のPartⅡであった。単純な2ではなく前作を受けてあくまで地続きであることを強調するPartⅡ。疑問を持たれつつも理解を示されたPartⅠの続きを描くとすればエリーが自身の存在と向き合うのは必然でそれを描いた点で、PartⅡ本作は実に誠実であったと思うし、そこに許しの仮託という形で決着をつけたのは素直に賞賛する他ない。

 

しかし、私はやはり『The Last of Us PartⅡ』を手放しで賞賛はできない。したくない。それは前述したアビー編の存在。アビーは確かに魅力的なキャラクターだ。アビーに対する嫌悪感や憎悪をアビー編をやりきった最後まで同じ熱量で保てたプレイヤーはほぼいないだろう。それも当然でユーザーがアビーに対し同情し、共感を得る様に作られているからだ。

 

アビー編を経験することはゲームを進行するうえでの必須条件でそれはゲームというメディアの運命だ。プレイヤーはゲームを進行したい欲求とアビーに対する憎しみを天秤にかけさせられる。アビー編で嫌気がさしてプレーを止めた人もいるだろう。仮にアビー編を続けたとしてもプレイヤーを待っているのは憎しみを募らせ続けたかったアビーとの望まない和解(アビーをどこまで許せるかの程度の差はあれど)。しかもアビーはユーザーに好かれるべくかわいそうな過去を苦悩を大切な仲間を“持たされて”いた。

 

過度ともいえるこれらはエリーにとって許されない存在として描くアビーにとってはやりすぎたものであり、エリーの許しというテーマからは不純物でしかなかった。ごてごてと装飾されたアビーのキャラクター性とゲームを進めたいプレイヤーの気持ちを人質にとることで成立させたアビー編。PartⅠの結末に誠実であったPartⅡの脚本に対してこれらは本作を語るうえであまりにも不誠実ととらえざるを得ない。

 

こういった構成はあらゆる面で前作を愛したプレイヤーを挑発するものあり、やりすぎたものであった。衝撃的な脚本と構成はプレイヤーに対しての誠実さを残してこそ成立しうる。無駄に露悪的ととらえられるほどやりすぎた本作はその点で評価を落とさざるを得ないし、それはPartⅠの熱狂的なファンと言えるほどでない私にとっても同様であった。PartⅢへの含みを多いに示した本作であったが、どうかPartⅢがあるなら、脚本に対する誠実さと同じくらいプレイヤーへの誠実さをし望みたいと思う。

 

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ひとりになってしまったエリー。でもきっとこれからは大丈夫

 

PartⅢでそれを示せた時こそノーティードッグは「PartⅡを許せない。でも許したいとは思っている」プレイヤーに報いることができるだろう。

 

 

 

<了>

 

 

 

 

 

 

 

 

 

獪岳の立ち位置と果たす役割がすごかった【鬼滅の刃144話】

いやー、めちゃくちゃ熱い展開が続いてますね。鬼滅の刃

143話ラストで登場した善逸の宿敵、獪岳(かいがく)の登場に年甲斐もなく興奮し、過去の話を含め読み返しているうちに、ちょっと、このキャラの設定と盛り込まれた物語上のポジションがすごすぎないかと思い、ブログにまとめてみようかという気持ちになりました。

 

 

1 第一に善逸の宿敵としての獪岳

まず大前提として善逸の兄弟子であり、善逸の師匠の仇にあたる獪岳。初登場は善逸の回想内で、4巻の34話。これは、炭治郎たちが那田蜘蛛山で下弦の月の伍の塁と戦っている頃で、善逸との対決は、かなり初期から構想のあった展開であったことがうかがえます。

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善逸に桃を投げつける獪岳。人であるこの頃から憎たらしい。

鬼として立ちはだかる獪岳は、ヘタレキャラではあるものの、やるときはやるという愛され方をしてきた善逸とは対照的に、少ない出番ながら既に憎たらしさMAX。困難から逃げ続けてきた善逸にこんな表情をさせる獪岳はこの時点で倒されるべき敵役として100点満点といえるでしょう。

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善逸の見せる決意に満ちた表情

 

2 “上弦の陸”であることの意味

かつて上弦の鬼の・伍・陸であった半天狗・玉壺・妓夫太郎は、いずれも物語の中で炭治郎たちの活躍によって倒されていきました。134話において、以前から登場していた、琵琶を弾く鬼の鳴女が新たに上弦の肆の座についていたことは明らかにされていましたが、上弦の伍や陸の存在は伏せられていました。

 

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上弦肆となった鳴女

 

上弦の肆の鳴女と上弦の陸である獪岳の登場は、当然まだ見ぬ上弦の伍の存在を明示し、想像をかきてたてます。さらに・陸ともに過去に登場していたキャラクターであり、上弦の伍も、もしかしたらすでに物語に登場したキャラなのではないかとの期待と憶測はとどまることを知りません。個人的には音柱、宇随天元の弟辺りが怪しいのではと思っているのですが…

これも100点。

 

 

3 “適当な穴埋め”の上弦の鬼ではない獪岳

見下していた弟弟子の登場にイキり倒す獪岳。善逸に「適当な穴埋めで上弦の下っ端に入った」と全鬼滅の刃読者の疑念を代弁されても余裕で受け流します。

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読者の気持ちを代弁。これはできる男の顔。

では獪岳は善逸の言う通り“適当な穴埋め”で上弦となったのでしょうか。それは違います。鬼舞辻無残は、過去に自らの腹心であった下弦の鬼の実力不足に見切りをつけ、容赦なく下弦の鬼たちを自らの手で葬り去りました。そんな鬼舞辻が適当な穴埋めで獪岳を上弦の鬼に据えるはずもありません。さらに獪岳の「俺は常に正しく俺を評価する者につく」の言葉。彼が残忍な鬼舞辻の評価を受け、鬼としての正当な実力を以て上弦の陸の地位を得ていることは疑いようがないでしょう。新たな上弦の陸の獪岳が実力を示せばの鳴女や正体不明の伍の脅威を証明できるというおまけつき。獪岳が恐ろしさを見せれば見せるほど、これからの敵の恐ろしさもアップするという構造。

疑いようもなく100点満点です。

 

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6巻52話より。ここでの鬼舞辻の冷酷さが逆に獪岳の実力を証明している。

 

 

4 鬼になることを選択した獪岳と人として鬼と戦う鬼殺隊

鬼滅の刃は、肉体的に弱い人間がいかに超越的な存在である鬼に対峙するかの物語です。人であることをやめ、鬼となった獪岳と善逸の戦いは、互いの因縁の決着というだけにとどまらず、脆弱な存在でありながら、想いや技術をつなぎ、鬼に立ち向かう鬼殺隊VS鬼という物語の本質を色濃く反映させているといえるでしょう。

また、鬼になることを選択した獪岳の存在によって、あくまで人として戦う鬼殺隊の気高さが際立つことなるという点も、彼の設定の秀逸さに数えて差し支えないと思われます。

はい100点。

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弱い存在であることが幾度も作中で語られる

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最後まで鬼となることを拒んだ煉獄

 

5 呼吸を使える鬼ってどうなの?の試金石となる獪岳

繰り返しになりますが、鬼滅の刃において、鬼は絶対的な強者であり、鬼殺隊は鬼に対抗するために、剣技を磨き、身体能力を向上させる呼吸の技術を受け継いできました。では、その鬼が鬼殺隊の鬼への対抗手段である呼吸を使ったらどうなるのか?これはもう、とてつもない脅威になることは想像に難くありません。雷の呼吸の使い手であった獪岳は、初手こそ善逸に後れを取ったものの、今後、雷の呼吸+鬼の身体能力で善逸を追い詰めていくことでしょう。

獪岳の登場前は、鬼舞辻を追い詰めた剣士に酷似する上弦の鬼の壱、黒死牟が最初に呼吸を使う鬼として登場すると予想した方も多かったと思います。十中八九、黒死牟は最強の呼吸法である、ヒノカミカグラを用いる最強の鬼として炭治郎の前に立ちはだかるでしょう。

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謎の多い上弦の壱、黒死牟

獪岳の活躍が上弦の・伍への期待を高めるのと同じく、彼が呼吸を使える鬼の恐ろしさを体現すればするほど、同様に呼吸の使い手であろう黒死牟の脅威が増すという構図です。なんておいしいポジションにいるんだ獪岳は。ここでも、もちろん100点。

 

 

6 最後に

いかがでしたでしょうか。善逸の回想以来の登場となり、満を持して鬼となって姿を現した獪岳がいかに物語上、意味を持つポジションに設定されるか整理できていたでしょうか。伏線の回収、今後の展開を見据えた設定…ここまでの要素を盛り込んだキャラクターをさらっと登場させてくる吾峠先生の手腕には舌を巻く他ありません。

これ以外にも、彼は悲鳴嶼の回想に出てきた、寺の子供たちを鬼に売った人物に似ている等、まだまだ因縁は残されていそうです。これからも目が離せない鬼滅の刃、ひとまず善逸と獪岳の勝負の行く末が気になりますね。ゴーゴー善逸。負けるな善逸。獪岳なんてぶっ飛ばせ。

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首に下げた勾玉の首飾りは獪岳か

 

 

 

保険調査官のススメ『Return of the Obra Dinn』

■保険調査官になろう

「できないことが、できるって、最高だ。」そんなキャッチコピーのゲーム機のCMがあった。山田孝之ロケットパンチを打ち、空を飛ぶこのCMは荒唐無稽な行動もゲームならできるし、それができるゲームって素晴らしい…このCMが言いたいのはそんなところだろう。

 

でも、ゲーム内でキャラクターを動かし、極太ビームを打ったところで、プロサッカークラブに入って世界的な有名選手になったところで、伝説の木の下で才色兼備なピンク髪の幼馴染に卒業式の日に告白されたところで、「ゲームで違う自分になれた!」「藤崎詩織俺の嫁」とはならないだろう(いや、後者についてはどうだろう)。

ゲーム体験とゲームを遊ぶ自分ってのは、実ははっきりとわかれていて、このゲームではこんなことをします、というのはゲームの設定を説明する以上の意味をもたず、こんなことが疑似体験できますという意味とは大きな隔たりがあるように思う。

 

さて、今回、紹介する『Return of the Obra Dinn』(オブラディン号の帰還)も例外ではなく、プレイヤーは保険調査官となってオブラディン号に残された謎を解くわけだけど、ちょうど保険調査官になりたかったんだよね、または、ああ保険調査官ね、最終面接で落とされてなかったら今頃保険調査官だったかな、いっちょ昔を懐かしんでこの保険調査官になれるゲームをやってみっかという動機づけをする人がどれだけいるんだろう。

実際、保険調査官ゲームですと言われて興味をひかれる人は少ないと思う。

 

だが、数年前に消息不明となった乗客乗組員総勢60名の商船が無人となってあなたの町に漂着したとしたら?その謎を解き明かすのが保険調査官のあなたの手にゆだねられたとしたら?決して少なくない乗員がいた商船の行方不明事件、当時大いに世間を賑わせ、様々な憶測を生んだことだろう。やがて事件は未解決のまま語られなくなり、当時の関係者にはささくれのように心に残り続けていたことだろう。

永遠に解けないと思われた事件の真相を究明する機会が、商船の漂着により訪れた。その謎を解き明かすのは他ならないプレイヤー。

 

集団神隠し、消息を絶った大型帆船の謎、未解決事件、こうした心くすぐるワードを前にいっちょやってみようか、とならないのはとんだ玉無し野郎か、さんざん事件を解決してきて、もう厄介ごとにかかわるのはうんざりな老探偵くらいのものだろう。

幸い、我々は玉無し野郎でもくたびれた老探偵でもないはずだ。さあ、保険調査官になろう。保険調査官になってオブラディン号の謎を解き明かそう。

 

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いざオブラディン号へ

 

 

■オブラディン号の謎を解け

さて、晴れて保険調査官としてオブラディン号に乗り込んだプレイヤーが真相究明のために与えられた武器は、死者の残留思念に反応し、死の瞬間を映し出す謎の懐中時計と船の乗客や経路、不完全な形で事件のあらましが書かれた手記の二つ。

ゲームは、死者の残留思念を辿り、死の瞬間を目撃してこの不完全な手記を埋めていくことで、進行していく。

 

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死体を発見し、死者の残留思念を辿ることで真相に近づこう

 

 死体を次々と発見し、死の瞬間に立ち会い、手記を埋めていくことは実はそう難しいことではない。ただし、130ページ超の手記の空白を埋めれば、真相に近づける、そう簡単なものではない。そうであるならこの調査の依頼人もわざわざプレイヤーの手を煩わせることはなかっただろう。

断片的な死の瞬間を繋ぎ合わせ、事件の空白を埋めた先には相も変わらず膨大な謎が横たわっている。すなわち、この死体は誰で、いったいなぜ死に至り、その死をもたらしたのは何者か?あるいは何なのか?という謎が。この謎を解くことこそがプレイヤーに課せられた使命であり、ゲームの目的なのだ。

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二人の男の争いの末に一方が死亡した。殺された男は誰だ?殺した男は…?

 

■プレイヤーの武器は謎の懐中時計と手記と…

オブラディン号の乗組員は51名、乗客は9名。実に60名に上るわけだが、乗員すべてを特定するのは容易ではない。死の瞬間に立ち会うことはできてもそれが手記の中に記された名簿の中の誰かなんて、だれも教えてくれない。プレイヤーがあの手この手で推理するしかない。そう、いかに超常的なアイテムを与えられようと、事件の空白を埋めるのはプレイヤーの推理力・洞察力であり、本作が骨太な謎解きゲームとして評価される所以である。

眼前に広がる夥しい死体の山と多くの謎、それに立ち向かうためには結局のところ自らの推理力を武器に手掛かりに向き合うしかない。

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乗員名簿。60名全員の安否確認は果たせるのか

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在りし日のオブラディン号を描いたスケッチ。これは名簿の中の誰なのか…?

 

■大切なのは真実へ向かおうとする意思

 アバッキオ「…ああ」「その……」「なんだ…」

警官「なにか?」

アバッキオ「いや…その、参考までに聞きたいんだが」「ちょっとした個人的な好奇心なんだが」

アバッキオ「もし見つからなかったらどうするつもりだい?」「『指紋』なんて取れないかも………」
「いや…それよりも見つけたとして」「犯人がずる賢い弁護士とかつけて無罪になったとしたら」「あんたはどう思って……そんな苦労をしょいこんでいるんだ?」

警官「そうだな…わたしは『結果』だけを求めてはいない」

警官「『結果』だけを求めていると、人は近道をしたがるものだ…近道した時真実を見失うかもしれない」「やる気も次第に失せていく」

警官「大切なのは『真実に向かおうとする意志』だと思っている」「向かおうとする意志さえあれば、たとえ今回は犯人が逃げたとしても、いつかはたどり着くだろう?」「向かっているわけだからな…違うかい?」

ジョジョの奇妙な冒険 コミックス59巻より)

 

 

突然の『ジョジョの奇妙な冒険』5部からの引用。しかし、ここには本作を楽しむ上での本質が示されており、その本質こそが『オブラディン号の帰還』を名作たらしめている。

高難度な謎解きゲームである本作には実は“抜け道”が用意されており、「殺害した人物と死因はわかったが死んだのが誰かわからない」、「このロシア人はどっちのロシア人だ?」という時に、絞り込んだ人物を手記にあてはめ、シャッフルし、正確な安否が3人ほど入力出来れば調査は進展し、正解であることを教えてくれる。

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投げっぱなしな本作にある救済措置。作者は3名ごとではなくもっと増やしたかったかも

だが、これは言わば上記引用での“結果”だけを求める行為であり、“近道”である。やはり、自らの足で調査を行い、強い意志をもって謎に立ち向かってもらいたいし、そうすることで真実に近づき、謎を解く喜びを得ることこそ本作の醍醐味だろう。

※偉そうに語ってますが、中国人たちの特定はどうしてもできず上記のシステムに頼ったことをここに告白します。

 

また、本作の素晴らしいところに真相の究明のアプローチが豊富であることがあげられる。単純に残留思念に残った会話から推測できるものから、直接死に関わらなくてもその場にいる人間から人間関係を推測できたり、ある時点のある行動が後の事件の伏線になっていたり、と様々な形でプレイヤーの推理力・発想力が試される。

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ここで死んだ、君の名は。

 

重要な点として、本作はプレイヤーの試行錯誤にしっかりと応えてくれる。船上で得られる情報は密接に絡み合い、プレイヤーの発想の飛躍に決着をつけてくれる。そして、謎が解ける瞬間は言うまでもなく、気持ちいい。

こればかりはプレーしてみないと実感しにくいのだが、プレーすればするほど本作は緻密に構成され、謎には手掛かりが用意され、手掛かりから謎に到達できるという確信が深まっていく。いわば謎とプレイヤーとの信頼関係が生まれていくのだ。時には調査に進展がなく、行き詰まるともあるだろうが、こうした信頼関係があるからこそ、困難な謎に頭を悩ませ続けることが可能となる。「真実に向かう意思」があればそれに応じてくれるのが本作の素晴らしい点である。

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序盤の1シーン。謎の究明には不要だが、この後起こる事象の説明となっている

 

わからないことに立ち向かう、わからないことを解き明かすことは、物語の価値であり、それによってもたらされる快感ってわりと人間に根源的に備わっていることではないかと思う。できないことが(ゲームで)できるってのが最高とは限らないが、わからないことがわかるってのは、たとえゲームの上でも 最高なのだ。

そんな快感を得ることを追求し、解くべき謎でてんこ盛りな本作のプレーがつまらないわけはない。さあ、みんなでオブラディン号の謎を解き明かそう。レッツ Obra Dinn。 

 

■オマケ 他人のプレーをみることのススメ

オブラディン号の帰還の感想を見ているとリプレイ性がない、自分で謎を解く過程にこそ価値があるから他人のプレーを見ても仕方ないというのを目にする。確かにネタバレを目にしては本作の価値はないに等しいのだが、クリア済みで機会があれば他人のプレーを見てみることをお勧めしたい。

 

我が家ではうんうんと頭を捻っては解けた!と喜び報告するわたしの姿をみて、普段あまりゲームをやらない奥さんが「わたしにもやらせろ」と言ってきた。

最初こそ、ゲーム慣れしない奥さんに操作を教え、真相を知った立場から謎解きに苦労する奥さんの姿をニヤニヤと眺めていたのだけど、ゲームを理解するにつれ、自分ではとても思いつかなかったアプローチで乗員の身元を特定し、スマートに真相に近づいていった。

その推理力はわたしをはるかに上回っていて、舌を巻くほどのものだった。さすが、毎年、春に映画館に足を運び劇場版コナンを見ているだけはある。

 

そんな奥さんも無事、オブラディン号の謎を解き、晴れやかな顔でこんな言葉を言い残した。これからオブラディン号の謎と対峙する保険調査官のみなさんに、奥さんのこの言葉を送り、困難な調査の手向けとしたい。

 

真実は、いつもひとつ

 

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1年前のこの日『ゼルダの伝説 ブレスオブザワイルド』に救われた話

■『ゼルダの伝説 ブレスオブザワイルド』の発売から1年

2017年3月3日

ゼルダの伝説 ブレスオブザワイルド』はNintendo Switchと共に発売された。

発売直後から国内外を問わず世界中のゲームファンやクリエイターに大絶賛され、数々の著名な賞を受賞したことは記憶に新しい。

『ブレスオブザワイルド』の優れた点は既に多くの場所で触れられてきたし、何よりプレイした人には数々の賞賛の言葉よりも自身の体験がこの作品の偉大さを雄弁に語ってくれていることと思う。

 

それでもなお、発売から1年がたった今、『ブレスオブザワイルド』について書こうと思ったのは、この作品とって私に何をもたらしたのか、私にとってどういう存在であったのかを明らかにしておきたいという思いがあってのことだ。ゲームシステムの優れた点を語ることは他の方に譲り、自分にとっての『ブレスオブザワイルド』について記述し、この偉大な作品を振り返りたい。

 

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Nintendo Switch版とWii U版の同時発売となった

  

■1年たっても色あせない『ブレスオブザワイルド』

『ブレスオブザワイルド』が発売されてからというもの、それはもう毎日毎日夢中で遊んだ。発売日には有給休暇を取得した。仕事は定時で片付け帰宅した。妻からゲームで遊んでばかりねと呆れられないために、家事を率先してこなした。習慣となっているトレーニングも、さぼるうしろめたさを感じつつプレーするのを避けるためいつも以上に真剣に取り組んだ。この素晴らしい作品を存分に味わい尽くすためにゲーム外の環境を整えないことは大きな損失になるとわかっていたからだ。意識してそうしたのではなく、『ブレスオブザワイルド』を万全の状態で楽しむために自然とそうなった。あの時期、自分は確実に『ブレスオブザワイルド』に恋をしていた。

 

当時の自分のTwitterを読み返すと『ブレスオブザワイルド』への言及は存在するものの、ゲームに対する熱量と比較して驚くほどその量は少なかった。熱に浮かされている自覚があっただけに、この情熱が冷めた時とのギャップが恐ろしい・言及が盲目な絶賛ポエムとなるのではないかという恐れから自重していたのだ。実際、絶賛のツイートを書いては消し書いては消しということをこの頃は毎日のように行っていた。

 

では1年たった今、発売時に抱いた「『ブレスオブザワイルド』は今後のAAA作品に求められる水準を数段引き上げた」、「ゲーム史に残る大傑作だ」といった感想は今の視点からどうか。当然、当時と変わらない。1年という時の洗練を経て熱狂から覚めた今でもなおこう言える。「ありがとう『ブレスオブザワイルド』。素晴らしい作品だ」と。

 

記事のタイトルとした「『ブレスオブザワイルド』に救われた話」というのはなにも、自分の乾ききった精神に『ブレスオブザワイルド』が潤いを与えた、おかげで人生が充実したという類のものではない。実際問題として長年の間、自分の中に残っていたある部分が救われたというお話だ。それを話すためにはゼルダを含めた自分のゲーム体験を語ることを避けられない。長くなるが、ここまで文章を読んでくれた奇特な方のうち、私のゲーム体験に興味を示してくれたさらに奇特な方はお付き合いいただければと思う。

 

 

■自分のゼルダ体験の原点となった『神々のトライフォース

ファミコンブーム直撃世代でもなく、当時それほどゲームに熱心でもなかった自分がなぜこの作品を手にしたのかはよく覚えていない。同級生に勧められて存在を知り、雑誌等で目にするうちに購入を決意したような記憶がおぼろげにあるだけだ。

しかし、プレーした時の衝撃ははっきりと覚えている。不穏なBGMと雷雨に包まれて物語は幕を開ける。おっかなびっくり歩みを進めハイラル城に侵入したところで視界が明るくなり、荘厳な音楽に出迎えられた。これからの壮大な冒険を予感せずにはいられない演出に一気に引き込まれた。

 

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驚きと発見に満ち溢れた神々のトライフォースの世界

 

クリアまでの数か月、この世界に夢中になった。コミカルなキャラクターに魅了された。ゲーム的お約束を知らずに単純な謎解きにも頭を悩ませた。小学館から発売された公式ガイドブックも.金色の表紙が擦り切れるほど何度も読んだ。1,000円以上した石ノ森章太郎のコミカライズも単行本を購入して読んだ。このゲームを教えてくれた同級生と、このゲームを題材にした自作のゲームブックを互いに見せあったのも今となってはいい思い出だ(二人とも完成には至らなかった)。

 

神々のトライフォース』の何が最も小学生の自分を魅了したか。それは世界が広がる喜びとその世界からの応答だ。ダンジョンでキーアイテムを手に入れるたびに行動範囲は広がり、自身の分身であるリンクの遊び場は増えていった。数々のアイテムを手にし、遊び場が増える度にリンクはこの世界への干渉の手段を増やし、それを実践してく。干渉と大層に言うものの、その内容はやれ今度はあっちの木にぶつかるだの、やれあっちの草を刈るだのやれようやくレベル3になったマスターソードを闇雲に振り回すだの他愛のないことだ。しかし、このゲームは子どものそんな他愛のない遊びにしっかり応えてくれた。木にぶつかればあそこの木からはリンゴが落ちる、草を刈れば蜂が出てきて襲われる、レベル3の剣を振ればこれまでと違った重厚な風を切る効果音が自分が強くなったことを教えてくれた。当時の自分には大好きになってしまったハイラルの世界が、自分の行動に応えてくれるのがたまらなくうれしかった。いつまでもこの世界にいたくてクリアした後もハイラルを駆け回り、2週目・3週目と周回プレーを重ねていった。

自分のゼルダの原体験となるとともにゲーム上の探索と試行錯誤の楽しさを教えてくれた大事な作品である。

 

 

■到来した3Dの時代、そして箱庭世界での探索の楽しさと可能性を教えてくれたあのタイトル

ゼルダの伝説神々のトライフォース』に魅了されて以降は、探索と試行錯誤の楽しさの欲求を満たしてくれるゲームは現れなかった。ほかにも素晴らしいゲームはたくさんあり、『神々のトライフォース』はジャンルではなくそれ自体として素晴らしかったという認識もあってか似たようなゲームを他に求めるという意識も薄かったように思う。ゲームもハードの進化でポリゴンを多用する作品が多数登場し、劇的な変化を遂げつつある中で、その変化と進化に目を奪われるばかりだった。

 

しかし、2000年もあと数年にせまった1990年代後半、期せずして3Dの箱庭ゲームとして『神々のトライフォース』と同種の感動を与えてくれた作品が登場した。

そのゲームは3Dでありながらロックオンシステムを機能的に作用させることでカメラワークの問題をほぼ解決し、当時としては広大な世界を自在に走り回ることを許容し、マップ上に様々な遊びを組み込んだ。当時強く思ったものだ「ああ、これは『神々のトライフォース』で味わったあの楽しさと同じものだ」と。

 

その作品はそう、「フリーランニングRPG」と銘打たれ、その名に恥じない走り回る楽しさを提供してくれた『ロックマンDASH 鋼の冒険心』だ。

このゲームでは『神々のトライフォース』と同じく、一見無意味と思われる行為に勤しんだ。ロックの人間離れしたジャンプ力で民家の屋根から屋根に飛び回り、道に落ちた空き缶を蹴り飛ばし、道路に飛び出して車にひかれては島民を困惑させた。私がカトルオックス島を縦横無尽に駆け巡るロック・ヴォルナットにかつて『神々のトライフォース』で光と闇の世界を冒険したリンクの姿を重ねたのも無理はない。

 

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冒険の舞台は3Dで描かれた世界へ広がっていく

 

3DRPGの基礎を作り上げた偉大なタイトルといえば、誰もがニンテンドー64で発売された『ゼルダの伝説 時のオカリナ』を挙げることだろう。このタイトルが後のゲームに多大なる影響を与えたことからもその認識は圧倒的に正しい。それでも私に3D箱庭世界での探索と冒険の楽しさを教えてくれたのは『時のオカリナ』よりも1年近く早く発売された『ロックマンDASH 鋼の冒険心』であった。たとえ、3Dダンジョンに落とし込んだ謎解きの質、当時のハード性能で空気感まで表現したグラフィック、オートジャンプに代表される3Dの課題の解決策で『時のオカリナ』が大きく上回っていたとしても私にとってこの時代に真に心に刻まれたタイトルは『ロックマンDASH』に他ならなかった。

 

 

■『風のタクト』の示した新たな可能性と犯した失敗

2001年春、スペースワールド(2017年末にて閉園し28年の歴史に幕を閉じた)のイベントにてゼルダの伝説の正当な続編タイトル『ゼルダの伝説 風のタクト』はお披露目された。

 

風のタクト初お披露目。ゼルダシリーズのメインテーマを強調し、これが新しいゼルダだと主張する

 

トゥーンレンダリングで描かれた新しいゼルダの伝説。キャッチーで明るいグラフィックは重厚でシリアスな物語を描ききった『時のオカリナ』とはまったく別のアプローチを行うという決意がひと目で見て取れた。当時、PS2を買うこともなくゲームもそれほど遊ばなくなっていた私にとってもこのグラフィックから受けたインパクトは絶大で、この作品が発売されるニンテンドーゲームキューブは絶対に買うぞと決意させるほどだった。

 

その年の9月に発売されたゲームキューブをすぐにゲットしてからは『どうぶつの森+』や『スマッシュブラザースDX』といったソフトを楽しみながらも、公開されたトレーラーを何度も見返し、制作者のインタビューからどんなゲームになるのかと期待を膨らませ続け、ネットの掲示板では見知らぬゼルダファンたちと意見を交わしあい、発売を心待ちにした。そしてとうとう迎えた2002年の12月、PS2に押されセールスの振るわなかったニンテンドーゲームキューブの命運を握るソフトとしての重責を背負わされ、この作品は発売された。

 

当時のインタビューでプロデューサーの宮本茂氏が「ゲームの世界に触れられることを実現した」といったことを喜びとともに語っていたことを覚えている。果たして『風のタクト』はその通りの作品に仕上がっていた。猫目の愛くるしいリンクが海から上がれば服から水滴がしたたり落ち、敵キャラクターのモリブリンの手から武器を奪えばモリブリンが狼狽するのが見て取れて、頭にツボを載せたノンプレイヤーキャラクターのツボを攻撃すればツボは割れ、そのキャラクターが悲しみそんな行為をしてしまった罪悪感に苛まれた。“生き生きとしたキャラクター”という言葉はこのゲームのためにあったのだと思わせてくれた。『神々のトライフォース』や『ロックマンDASH』で私を感動させた“ゲーム側からのレスポンス”はトゥーンレンダリングという表現を手にし、それまでのどんなゲームも到達しえなかった領域にまで到達したかのように思えた。

 

しかし、いかに優れた手触りと実在感を備えていても、そのゲーム自体がユーザーを強く惹きつけるものでなければ、宝の持ち腐れである。『神々のトライフォース』も『ロックマンDASH』も『時のオカリナ』もメインのシナリオ進行に引き込まれ、だからこそゲーム側からの応答を心から楽しみ、よりその作品を好きになっていけるという好循環故に語り継がれる名作となった。

 

風のタクト』はそれらの名作と肩を並べるにはあまりにも多くの問題を抱えていた。『時のオカリナ』から大きく減らしたダンジョン数、あまりにも広大な海に用意されたあまりにも少ないコンテンツ、プレイ時間の水増しと捉えらるのも無理はないトライフォースのかけら集め、何度もここで新ダンジョンかと思わせて期待を裏切るストーリー構成。『時のオカリナ』や『ムジュラの仮面』での緻密さが嘘のように、一ゲームファンから見ても、ずさんな作りや構成が目立ってしまった。

 

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大海原の冒険にロマンはあったが大航海の果てに得られるものは少なかった

 

その頃任天堂を追いかけていたゲームファンはなぜこの作品がユーザーの感情に配慮しない構成となり、コンテンツが不足し、マスターソードを手にした後盛り下がっていくようなものになったか理解できると思う。上でも書いたが、当時の任天堂ゲームキューブの販売に苦戦し、対抗馬であるPS2に食らいつくために、なんとしても年末の商戦期に『風のタクト』を出す必要があった。高い評価を受けながら何度も発売延期を繰り返し世に出るころにはハードの敗北が決定的となっていた『時のオカリナ』及びニンテンドー64の二の舞にはならないという思いがあったのだろう。発売後まもなくニンテンドーDreamという雑誌で任天堂の広報が珍しく売り上げに言及しぼやいていたのを鮮明に覚えている。「(国内70万本のセールに対し)本当はすぐに100万本いっててもおかしくないんですけどね」と。要するに『風のタクト』はハードの販売競争のために納期が優先され、細やかな調整や実装すべきコンテンツを諦めて世に出された未完成品だったのである。ユーロゲーマーのインタビューで宮本茂が「ジャブジャブ様の所にダンジョンがある予定だったが時間が足りなくてカットした」と発売後に語っているのを目にした時はインターネット掲示板の仲間たちとともに「やっぱりね」と深いため息をついたものだった。

 

偉大なグラフィック表現と(ゼルダの伝説に求められる水準としては)平凡なゲームプレイ。ともあれ、ニンテンドーゲームキューブを普及させるという使命にも失敗し、ゲームの評価としても平凡なものとなった同作品は、トゥーンレンダリングの表現自体にも疑義を生むこととなる。私はといえば『風のタクト』は惜しい点が数えきれないほどもあるが、トゥーンレンダリング自体の表現は素晴らしいものであり、これからどんな進化をしてくのかと希望をもっていた。フォトリアルの追及ばかりではつまらない。デフォルメ表現をさらに進化させた次なるタイトルの誕生を心待ちにしようと。

 

しかし、そんな淡い期待は打ち砕かれることとなった。それも他ならぬ『ゼルダの伝説 風のタクト』の続編によって。

 

 

■熱狂で迎えられた『トワイライトプリンセス』ともたらした失望

忘れもしない2004年のE3。今年の任天堂はすごいぞとまことしやかに囁かれた。ゲームメディア大手のIGNは任天堂のプレスカンファレンス前には今年の任天堂の発表を見たらお前らこうなるぜと ↓ のような画像を掲載し期待を煽った。

 

 

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有名な外人4コマの元ネタは2004年のゼルダの発表に関する画像

 

 

そして事前の噂どおり、任天堂ファンが狂気する発表が行われる。『ゼルダの伝説 トワイライトプリンセス』は万雷の拍手と絶叫の中で迎えられた。それはまさにゲーム史に残る名作中の名作『時のオカリナ』の正当な進化と確信するに十分な映像であり、『風のタクト』に失望したゼルダファンの留飲を下げるインパクトをもったものだった。

 

リンクの登場でヒートアップし宮本茂氏の登壇で絶頂を迎える。“ファンに求められた”続編の発表だった

 

私もリアルタイムでこの発表を見ていたが、外人の盛り上がりはそれはもうものすごいものだった。私も地平線からゆらめく敵の影や馬で駆けるリンクの雄姿に興奮しないではなかったが(宮本茂氏の登場にも)、それ以上に画面の外人たちの盛り上がりが大きくなればなるほどそれらを冷めた目で見つめる自分の存在も自覚していた。フォトリアル寄りに描かれたリンクとハイラルは、風のタクトで見せた驚異的なグラフィックと比較して表現的なふり幅がとぼしいとわかっていたからだ。乱暴な言い方ではあるが『トワイライトプリンセス』は『風のタクト』で示した新たな表現の地平を否定し、既存のファンに迎合したつまらない作品に思えた。これにははっきりと失望した。『風のタクト』の商業的な失敗で任天堂は挑戦することを諦めてしまったと。

 

ゲーム自体の出来はというと、前作の『時のオカリナ』の進化と呼ぶに妥当な傑作だった。ゲームキューブ最後のタイトルになると同時に新ハードのWiiのロンチタイトルとなった『トワイライトプリンセス』 は十分な開発期間が与えられ、世に出ることになった。複数のエリアで分断された『トワイライトプリンセス』の世界は『時のオカリナ』ほど広大な平原を駆け回る喜びを与えてくれなかったものの、攻略しがいのあるダンジョンや、スピナーやハンマーに代表される創意工夫のある新アイテムで楽しませてくれた(通販限定販売のゲームキューブ版を買いましたとも)。

 

だが、ゼルダの伝説の新作を楽しみながらも私の心には釈然としない思いがずっと存在していた。『トワイライトプリンセス』は『風のタクト』からの明確な後退であるとの発表時に抱いた認識はプレーを経てより強くなったのだった。

 

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“ファン”が望んだのは時のオカリナの進化だった

 

 

■濃密ゼルダこと『スカイウォードソード』が示したシリーズとしての閉塞感

2011年Wiiで発売された新作『ゼルダの伝説 スカイウォードソード』はWiiリモコン+を採用し、操作面での目新しさを打ち出した、水彩を交えたような柔らかいタッチは魅力的ではあったが、SD画質のWiiのソフト自体、HDテレビの普及や高性能なライバルハードのPS3XBOX360のソフトの充実もあって、ややチープな印象はぬぐえなかった。

 

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Wiiリモコン+を使用したWiiらしいソフト

 

Wiiリモコン+を使用するというコンセプトの他に本作は“濃密なゼルダ”とすることが至上命題とされ、“濃密”というキーワードは公式のインタビューで繰り返し使われた(社長が訊く『ゼルダの伝説 スカイウォードソード』。 

濃密の旗印のもと今まで解放感を提供してきたフィールドは何度も訪れる場所と設定され、何度も訪れるに足る飽きさせない、よく言えば創意工夫に満ちた、悪く言えば複雑で窮屈な作りとなっていた。

 

ゼルダの伝説といえば謎解きの詰まったやりごたえのあるダンジョンと、開放感のあるフィールドのメリハリがシリーズの特徴だったが、スカイウォードソードはあろうことかフィールドのアスレチック化を進め、フィールドとダンジョンとの境目を希薄なものとしてしまったのだ。確かにパズルの質と量は充実し、Wiiリモコン+の機能を活かして新鮮な遊びがたくさん詰め込まれていた。しかし、常時パズルに支配され息がつけない状況は制作者側にとってはコントロールしやすいのだろうがユーザーからすればたまったものではない。とにかく遊んでいて窮屈な作品だった。

 

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濃密なフィールドに解放感は存在せず実在感のない記号的な存在に

 

もちろん『スカイウォードソード』がこうならざるを得なかった理由もよくわかる。特に『時のオカリナ』以降、ゼルダと言えば難解な謎解きとダンジョンでそれが常に求められてきた事情がある。そこが他の大作でも真似のできないところであり、ゼルダアイデンティティであった。単純なステータスアップによる成長を頑なに避け、差別化してきたゼルダの伝説が、自らのアイデンティティである謎解きにフォーカスするあまり、結果的に内に内に閉じていく窮屈な作品になったのは必然でもあった。ゼルダの伝説は自らが作り上げたシリーズものとしての制約に縛られもがいていた。

 

かくしてゼルダは『風のタクト』で見せた表現の可能性の扉を自ら閉ざし、続いて多くのプレイヤーを魅了した探索と冒険の醍醐味まで捨て去った。探索と冒険の欲求はスカイウォードソードの発売から数週間後、スカイウォードソードよりはるかに大きな期待をもって発売日を迎えたTESシリーズ第5作『スカイリム』等、数々の優れたオープンワールドゲームによって満たされ、スカイウォードソードに対する失望は『トワイライトプリンセス』の時とは違い大したダメージにもならなかった。世界は偉大なゲームであふれていた。ただ、2002年に『風のタクト』で示された可能性だけが心残りだった。

 

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2018年現在、Switch版やVR版で未だに注目を浴びる『スカイリム』。TES6はいつになるんだ。

 

■そして『ブレスオブザワイルド』

スカイウォードソード』に続くゼルダの伝説最新作。2014年に映像が公開されたそれは前作『スカイウォードソード』とは異なる広大なフィールドを持つことが宣言され、温かみのある美しいグラフィックは私に再び関心を抱かせる十分だった(なにせ当時の大作はフォトリアルな映像と暗くてジメジメした世界を描いたものばかりだった)。

 

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草原に馬上でたたずむリンク。はやくこの世界を冒険したいと思った。

 

後にブレスオブザワイルドのサブタイトルが冠されるこの作品が並々ならぬ意欲をもって開発されていることはファンにも伝わった。映像が公開される前年にはゼルダのアタリマエ(お約束)を見直すことを公表し、当初発売予定としていた2015年には発売延期の告知を行い、「もっとも完成度の高い究極のゼルダゲームにすることを第一優先とする」と宣言した(2015.3.27 Wii U『ゼルダの伝説 最新作』開発状況に関するお知らせ  )。

 

ゼルダのセオリーを大胆に見直すことを不安視する意見も多くみられたが、私は期待とともにその方向性を支持した。ゼルダの、ダンジョンを順番通り攻略してストーリーを進めることやお約束の成長要素でゲームを作ることに限界が来ていることは明白だったから。

 

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(2013.1.23のNintendo Directから)

 

一抹の不安もなかったわけではない。ゼルダが採用したオープンワールドは前述のTESシリーズやグランドセフトオードシリーズを始め、数々の名作が世に生まれ洗練されてきた。今まで他に真似のできないゲームデザインで評価されてきた孤高の存在であったゼルダの伝説が他の作品に追随してきたようにも見えたからだ。『ブレスオブザワイルド』の表現したオープンワールドを「オープンエアー」と命名した任天堂を「周回遅れの技術を独自用語で呼びたがるのは任天堂の悪癖」と揶揄したクリエイターがいたが、『ブレスオブザワイルド』発売前の当時を取り巻く状況としては無理もない反応だったと思う(この方は『ブレスオブザワイルド』発売後、数々の課題を解決し傑作に仕上げたこの作品を大絶賛しています)。

オープンワールドゲームは既に世に出て10年以上の下地があり、近年は「クエストのためにマーカーを移動するだけ」というオープンワールドの限界を示すような批判も出てくるような状況だった。

 

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ウィッチャー3は海外ドラマさながらのシリアスなストーリーの質と量で問題に立ち向かった。

 

オープンワールドがオープンなだけで評価される時代は終わりを告げ、いかにそれをゲームに落とし込むかが求められるそんな中、『ブレスオブザワイルド』は満を持して登場した。

 

■どこまでもいける世界、そして触れられる世界。ありがとう『ブレスオブザワイルド』

いよいよ発売された『ブレスオブザワイルド』にいかに魅了されたかは冒頭のとおり。

 

『ブレスオブザワイルド』は前述のマーカーを追いかける遊びという課題を視覚的に興味を惹くシンボルをマップに配置し、ユーザーに自発的な移動を促し、目的地だけでなく移動の課程にコログや新たな試練の祠等、思いがけない発見を仕込むことで移動自体を目的とすることに成功した。広大な海を孤独に航海する「風のタクト」とは異なり探索に対する見返りが用意された本作はプレイヤーに「この世界を知り尽くしたい」と冒険に駆り立てるさせるに十分だった。

 

そして、他の並みいる大作や『トワイライトプリンセス』や『スカイウォードソード』が成しえなかった手触り感。それがゼルダに帰ってきた。『ブレスオブザワイルド』に用意されたアクションは決して多くない。使用するアイテムも従来シリーズからすれば少なくゲーム中に機能のアップデートはあるものの、ゲームの冒頭に手に入れる基本的なアイテムを組み合わせてゲームを進行する。

だが、アクションは限られてもアクションに対するリアクションはこれまでのシリーズと比較にならないくらい豊富だった。たいまつを持てば氷が溶ける、丸い球にむかって武器を振れば転がっていく、ビタロックで丸太を遠くに吹っ飛ばす、敵の武器を奪えば敵が悔しがる、眠っている敵を起こせば戦いのためにまず武器を取りに走る…謎解きやゲームの進行といっさい関係ないレベルで自分の行動にゲームが応えてくれることのなんと喜ばしくて大切なことか。かつて『神々のトライフォース』で知り、『風のタクト』でその先に思いを馳せた「ゲーム側からの応答」が再び私の前に現れた。それも信じられないくらい高い次元で。

 

 

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サブタイトルどおり世界の息遣いを感じれるブレスオブザワイルド

 

私が求め続けた「世界が広がる喜び」と「その世界からの応答」がようやく3Dとなった新作のゼルダの伝説で実現した。『トワイライトプリンセス』で失望し『風のタクト』の可能性を惜しんだ当時の自分。その時に抱いた失望と寂寥はかくして『ブレスオブザワイルド』に救われた。このように誠に勝手ながら『ブレスオブザワイルド』は『トワイライトプリンセス』の発表を冷めた目で見た当時の自分の感覚を全肯定し救ってくれた記念碑的な作品であるととらえている。『ブレスオブザワイルド』を知らない10数年前の自分に教えてあげたい。「安心しろ。お前を肯定してくれるゼルダの伝説は必ず現れる」と。

 

私の既存タイトルファンにとって大変失礼で身勝手な体験は別としても、この素晴らしい作品を世に出してくれたスタッフの方々には感謝してもしきれない。世界中からの賛辞とは別に私からも感謝の気持ちを伝えたい。「ありがとう『ブレスオブザワイルド』。ありがとうすべてのこれまでのゼルダスタッフ」と。

そして『ブレスオブザワイルド』を楽しんだ世界中の仲間たちも同じ思いでいることと思う。本当に面白かったよなこのゲーム!ネットのみんなも顔を合わせることがあれば、『ブレスオブザワイルド』の素晴らしさを存分に語り合おうな!

 

最後に、私も強く首肯した本作のプロデューサー青沼英二氏の言葉を引用して結びとしたい。

 

最後にユーザーのみなさんにお伝えしたいことは、『ゼルダ』というよりも「ゲームってまだまだいけるでしょ!」ということですね。

((ゼルダの伝説マスターワークスP413))))

 

次のゼルダの伝説の開発は既に動き出しているそうだ。次なるゼルダがどのようなものを見せてくれ、また『ブレスオブザワイルド』に刺激を受けたクリエイター達が私たちにどんな素晴らしい驚きを与えてくれるか、まだまだ楽しみは尽きない。そんな思いを抱かせくれた『ブレスオブザワイルド』、この偉大なゲームに出会えて本当に良かった。(了)