【ネタバレ】The Last of Us PartⅡ

 

The Last of Us PartⅡ』のネタバレありでの記事です

プレー中、この先プレーする予定の方はご注意ください

 

 

 

 

 

 

・ジョエルとエリーの物語はこれでお終いです(2013年発言)

 

世界的な評価を受けた前作の『The Last of US』。

続編の可能性について問われたノーティードッグはかつてこう答えた。

 

『ジョエルとエリーの物語はこれでお終い』

 

事実上の続編は作らないとの宣言。仮に作られるとしても世界観を同一にした別の物語であるとの言葉だった。

傑作であった『The Last of Us』に続編が出ないこと、エリーとジョエルの活躍がこれ以上見られないことは残念だったが、事件に決着をつけ、ひとときの安息を手に入れたエリーとジョエルがこの世界でこれ以上苦しむことはないと安堵したのも事実だった。

 

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『Last of Us』におけるジョエルとエリー

 

創作において描かれないことはその世界に存在しないことと等しい。もしくはあらゆる想像が許容される。たとえ、この苦しみと争いに満ちた世界でもエリーとジョエルがお互いを大切に思い、絆を深め幸せに暮らしていったという都合の良い物語でも。

 

しかし、まさに続編にあたる『The Last of Us PartⅡ』が登場することでノーティードッグの発言は否定されることになる。いや、否定ではなかった。思いもよらぬ形でこの発言が正しかったものと思い知らされる。

 

 

・ジョエルとエリーの物語の終焉

 

The Last of Us PartⅡ』はエリーの復讐の物語であると宣伝された。パッケージも血を流し鬼気迫る表情でこちらを睨めつけるエリーのドアップ。

 

物語の冒頭でジョエルはアビー率いる謎の集団に暴行され、惨殺される。

PartⅡ』の登場で反故にされたと思われた「ジョエルとエリーの物語はこれでお終い」の言葉は果たして正しかったことが証明された。前作の主人公であったジョエルの死によって。ノーティードッグの宣言通り、この先、ジョエルとエリーの物語が紡がれることはなくなった。ジョエルに会えるとしてもエリーを通してエリーの中のジョエルが描かれるときだけだ。

 

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ギターを弾くジョエル

 

エリーの旅立ちはジョエルの復讐を遂げるために始められる。

誰もが衝撃を受けた「ジョエルとエリーの物語の終焉」の禊として。

 

 

 

・エリーとしての復讐とプレイヤーとしての復讐

 

わだかまりはあったもののエリーにとって大切な存在であったジョエルの仇、特に手を下したアビーはエリーにとって生きていてはならない敵であり、それはプレイヤーにとっても同様だ。ジョエルは前作で終始操作を行った、いわばプレイヤーの分身であり、本作では感染者の群れから身を挺してアビーを守ったナイスガイだ。仮にジョエルに思い入れがなかったとしてもアビーは受けた恩を下劣な手段で返した外道であると位置づけられている。

エリーとプレイヤーの動機付けは完全にシンクロし、アビー許すまじ、一団であるWLF(ウルフ)許すまじと復讐の旅へ駆り立てられる。

 

エリーとプレイヤーのモチベーションのシンクロ。これこそがゲームへの情熱を駆り立てるドリブンであったが、物語を進めるにつれ、シアトルでアビーとWLFを追いかけるにつれ、雲行きが怪しくなってくる。不倶戴天の敵であったWLFは生き延びるために色々な作戦行動をとっており、スカーと呼ばれる謎の宗教集団に手を焼いていて、復讐の対象の一人はスカーの手により無残な死を遂げている。加えてエリーのパートナーであるディーナの妊娠の発覚。復讐心を抱き、ただただ前へ突き進んできたエリーが逡巡する間を持つのも無理はない。

 

しかし、プレイヤーはどうか。エリーがWLF兵もまた生きた人間であると感じ、パートナーであるディーナの迷いを歯がゆく思ったとしても、プレイヤーにとってWLFの兵士はいかに倒れた仲間の名前を叫ぼうとただのデジタルなモブであり、ディーナに至っては突如現れてエリーの愛を一身に受けるばかりか物語をかき乱す迷惑な存在でしかない。復讐の道を突き進みたいプレイヤーにとっては復讐以外のことに心を寄せるエリーの動揺自体が疑問となる。ここでエリーとプレイヤーの間に心理的な乖離が生まれ始める。

 

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シアトルでのエリー

 

情報を得るために仇の一人を自らの手で拷問したエリー。心優しい彼女は心を痛める。勢い余ったばかりか知らなかったこととは言え、妊婦を殺してしまったことに強烈な自己嫌悪を抱くエリー。しかし、プレイヤーがそんな彼女の“迷い”、“後悔”に本当の意味で共感するのは極めて困難だ。なぜならエリーが復讐に疑問を持つに至ることになった手をかけた彼ら彼女らはエリーがそう思うように配置されたキャラクターにすぎず“エリーが後悔するために”、仲間思いであり、可哀そうな背景を持ち、さらには“妊娠させられていた”のだから。

妊婦であるから殺しを後悔する、仲間思いなら殺さなければよかった。人間であれば誰しも自然に思うことである。しかし、だからこそ本作品が提示したい“復讐の行きつく先”というお題目のためだけにそう設定された、身もふたもない言い方をすれば死んだキャラクターであることを色濃く反映する。

 

 

 

・復讐の漂流

 

本作は復讐の入れ子構造を持った作品だ。アビーにとってはジョエルが親の仇であり、エリーとプレイヤーにとっては復讐を果たしたアビーがジョエルの仇である。そしてアビー一派への復讐の過程にあり、殺戮を繰り返してきたエリーはアビーにとって新たに復讐心を抱くにふさわしい存在となった。正しく、憎しみの連鎖が達成されている。果たしてこの憎しみの連鎖は断ち切ることができるのか。

 

エリーの旅の終わりの近くで仲間を殺してきたエリーの前に再び立ちはだかるアビー。アビーによりエリーの仲間であるジェシーは射殺され、ジョエルの弟のトミーは組み伏せられる。当のエリーはアビーに銃口を向けられ絶体絶命の局面だ。すべてはエリーの復讐の旅がもたらした結果だ。不毛な復讐の旅路はここで終わるのか…と緊迫したところで、このゲームは信じられない展開を果たす。

 

操作キャラがエリーからアビーに切り替わり、仇であったアビーの過去とシアトルでの道程をプレイヤーに追体験させるのだ。しかもかなりの長尺を操作させることで。ボリュームとしてエリー編に引けを取らないくらいの分量で。

 

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存在さえ伏せられていたアビー編

 

「復讐する側にも事情はあり、大切な仲間が存在する。復讐は許さるのか?」そんな言葉にするには余りにも陳腐なメッセージをプレイヤーに追認させるためにプレイヤーに操作を強制する。これはゲームを購入し、最後までやり遂げたいと思っていたプレイヤーの意欲を人質にとるような行為であるように私は受け止めた。もっと言えば「小賢しい」手法であるように思う。

 

ゲームというメディアがストーリーを手厚く語るようになってなお映画や小説と明確に一線を画す点が存在する。それは、あくまでゲームはプレイヤーが操作するメディアであるという点だ。プレイヤーが操作するものだからこそプレイヤーはキャラクターに愛着を持ち、画面内のキャラクターの挙動に感情移入し一喜一憂できる。映画での暴力シーンは平気でも自分がキャラクターを操作して無意味な暴力を振るうことに嫌悪感を抱く人は少なくないだろう。こんなバイオレンスなゲームで上げる例としては不適切かもしれないけど。

 

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完全に余談だがGTA5のトレバー編は苦痛で仕方なかった

 

プレイヤーにとって憎しみの対象であるアビーを操作しなくてはならないのは苦痛の時間だ。しかも、プレーを通してアビーは愛しうる魅力的なキャラクターと判明する。だからこそ、愛着をもってしまうことに戸惑い、ジョエルの仇であるからこそアビーの魅力を知ることに罪悪感すら抱いてしまう。父との幸福な時間を過ごしていた可憐な少女であったアビーを知った今ではベンチプレス85㎏を持ち上げる太い上腕二頭筋ですら愛おしい。太い腕は彼女の懊悩とそれを乗り越えようとした努力の証でもあるのだから。ゴリラと揶揄される『Horizon Zero Dawn』の主人公アーロイ顔負けのゴリラであった憎きアビーのゴリラ加減がこんな評価になるとは自分でも驚き。

 

しかし、アビーが仲間思いであればあるほど、組織を追われた姉妹に向ける優しさを覗かせるほどに私は彼女を魅力的と思うと同時に冷めていく自分を自覚する。彼女の愛すべきキャラクターがエリーにプレイヤーに復讐をためらわせるための舞台装置でしかないことが証明されていくから。察するべき事情がある、復讐をすべきでない事情がある。それらは描写すればするほど、復讐の不毛さとを訴えかけることとはかけ離れる。言ってしまえば単純に可哀そうな奴は殺すなということでしかなくなるのだ。これは逆説的に共感できない奴なら殺していいよというメッセージを発信していることにはならないか。エリーやアビーが殺してきたモブの兵隊のように。掘り起こせばモブの彼ら彼女たちにも大切な人は存在し、死を悼む仲間もいるはずなのに。

 

アビーが高所恐怖症設定を持ち、パートナーであるレブに励まされるシーンなんていかにも「彼女にもこんなかわいいところがあるんですよ」と言いたげだ。実際かわいげを感じる場面ではある。

 

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レブに励まされるアビー。意図的に設定された彼女の弱みだ

 

復讐をためらわせる正当性を持たせるためにゲームメディアの特性を利用している点、神の視点を持つ作り手のさじ加減でどうにもなる同情すべき設定を記号的に配置している点、この2点で私は『The Last of Us PartⅡ』のこの構造に嫌悪感を抱かざるをえなかった。

 

 

・セカイからの望まない帰還 

 

前作『The Last of Us』の結末はゾンビウィルス(便宜上こう呼ぶ)の抗体を持つエリーの命と引き換えに世界を救うことをジョエルが拒み、エリーとともに生きていくことを選択するものだった。世界を救うことと一人の少女の命を守ること、両者を天秤にかけてエリーを守ることにしたジョエルの選択は苦楽を共にしたプレイヤーですら簡単には理解できるものでなく、実際そのラストを受け入れられないというプレイヤーの意見もあった。

ジョエルは若いエリーと違いウィルスによって崩壊する前の世界を知る人間だ。崩壊後の世界と崩壊前の世界の両方を知り、それでもエリーを守ることを選択したからこそこの決断は重たい。実の娘を失い、それでも生き永らえていたジョエルは大切な物を失いかなぐり捨ててまで得る世界の救済。そこでの人生になんの価値もないことを知っていた。

 

ジョエルの決断はこの世界を生きる誰にも理解されるものでもないし、許されるものでもない。命を救われた当のエリーにとっても。しかし、ジョエルを自身の分身とし、実の娘とエリーを重ねてきた彼の気持ちを知るプレイヤーだけは違う。“わかるよ。お前ならそうする”そんな声をかけられるのはプレイヤーだけであり、世界の敵であることを選んだジョエルと共犯関係でありえた。

 

世界を取り巻く大問題よりもジョエル・エリー・プレイヤーの心情や関係性に重きを置き、エンディングではそれを証明する決着となった『The Last of Us』はいわゆる“セカイ系”の類型と言えるタイトルだった。

 

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エリーに救われたジョエル。ジョエルに救われたエリー

 

そして本作『The Last of Us PartⅡ』ではジョエルはエリーを救った決断により、その報いを受ける。これはジョエルの前作でのありえない決断を受け入れられたプレイヤーに対する裏切りでもある。ジョエル・エリー(そしてプレイヤー)でおさまっていた物語の解像度を一気に一般レベルにまで引き戻しセカイ系なセカイから世界へ引き戻した。

 

ジョエルの衝撃的な死は多くのゲームファンにネガティブな反応をもって迎えられた。これは単純に人気キャラクターを死なせたというだけでなく、彼の死が前作の否定に、ひいては釈然としないながらもジョエルの気持ちを汲んで理解するに至ったプレイヤーの気持ちをないがしろにするものでもあったからに思う。

 

 

・エリーの赦しの物語としての『The Last of Us PartⅡ

 

 ジョエルの決断が報いを受けることはエリーにとってジョエルの死という現実を超えて残酷だ。なぜならジョエルが報いを受けることは抗体を持ちながら生きているエリーの存在自体がこのウィルスの蔓延する世界においてあってはならないことを彼女に再認識させることだから。エリーはエリーがこの世界で生きている限り自身を呪い、感染者の犠牲になる仲間を見るたびにそれを実感しなくてはならない。ジャクソンから抜け出しウィルスのために命を落としたかつての仲間をみた彼女の苦悩はいかほどのものであったか。

 

生きていること自体が罪と感じるエリーは自身の生を呪わざるを得ない。生きていくためには世界の救済を選ばなかったジョエルを憎まざるを得ない。しかし、憎むべき存在であるジョエルはまた彼女にとっても大切な存在でもあり、その矛盾が彼女を引き裂いてしまう。

 

ジャクソンのパーティーでエリーに絡むセスの間に割って入るジョエルにエリーは「助けてなんて頼んでない」と激昂する。この怒りは「あたしは自分の命よりも世界を救ってほしかった」という怒りの表れではないか。 

 

「ジョエルのことは許せない。でも許したいとは思ってる」

 

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エリーの苦悩

 

許せるはずのないジョエルを許したいと望む、これは自身の存在自体が罪であると考えるエリーにとって偽らざる本心だろう。ジョエルを許すことは彼女自身の生の肯定に他ならない。ジョエルの和解とともに彼女の人生は新たな歩みを見せるはずだったがそれはジョエルの死によって永遠に失われた。

 

エリーの復讐の旅はジョエルに対する償いでもある。「ジョエル最後まで許してあげられなくてごめん。ジョエルを殺したあの女はあたしが絶対に殺すから」というものだ。しかし、アビーを殺し復讐を果たしたとしてもそれはジョエルを許せなかったことに対する償いでしかなく、エリーがこれからの人生を生きるためにしなくてはならないジョエルの行為に対する許しとはなりえない。

 

では、エリーは永遠に罪を背負いこの世界を生きていかなくてはならないのか。

個人的な見解だが、エリーはエリーなりにジョエルへの償いを果たし、許すことを選択できたと思う。

 

 

・復讐の対象としてのアビー、許せない存在であるアビー

 

アビーに殺されたジョエルとジョエルを殺したアビー。二人には物語上、大きな共通点が存在する。それぞれ理由は違うものの両者はエリーにとって許せない存在ということだ。

物語の最後においてエリーは執着の対象であったアビーを自身の手で殺す機会をついに手にし、煩悶の末、アビーを見逃すことを選択する。アビー編を長く操作したプレイヤーにとってそれぞれ差異はあれどアビーを殺したくないまたは殺さなくてもいいかなという理由は存在する。まあ存在しないこともない。

 

しかし、エリーにとってアビーへの復讐を迷う理由はこれ以上自分の手を血で汚したくないという暴力への忌避や世界からは決して許されない存在としての自身に対する後ろめたさ以外のものはない。一度は復讐を諦めたエリーが手に入れていたディーナと赤ん坊との平穏な生活を振り切ってまで復讐の旅に再び赴いたのはなぜか。それはエリーの人生において大切であったジョエルとの関係の清算がアビーとの決着をなしには果たせないからだ。

 

依然として殺さなければならない許せないアビーであったが、エリーは遂にアビーを殺さなかった。エリーがアビーを殺さなかったことについて大きな批判があるようだが、私はこの結末はビターではあるが重要なものを示しているように思う。前述のようにジョエルとアビーはエリーにとって許せない存在である。その許せないアビーをエリーは許すことを選択した。それはジョエルに対してエリーが人生をかけて飲み込み絞り出すはずであった「赦し」そのものではないか。クライマックスでアビーの首を絞めるエリーに去来するギターを弾くジョエル。最後まで許すことができなかったジョエルと今まさに自分の手で命を落とそうとしている許せないアビー。そのアビーを許したことでエリーはジョエルへの許しの仮託としてついにトラウマを乗り越え、世界を救えなかった自身の存在を肯定する第一歩を踏み出せた。

 

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エリーの脳裏に去来する在りし日のジョエル

 

エリーがジョエルに対するわだかまり清算し、新たな人生を歩む決意を持てたことはエピローグでジョエルそのものの象徴であるギターを置いて旅だったこと、エリー自身が利き手の指の欠損によってギターをかつてのように弾けなくなったシーンを見るまでもなく明らかだ。

 

批判の多い『The Last of Us PartⅡ』のシナリオにおいて、エリーのアビーに対する許しが単なる復讐の連鎖の断絶にとどまらず世界に対して罪を抱えたジョエルとエリーの赦しにつながったと言えるこの流れは素晴らしいと言える点だ。

 

 

・『The Last of Us PartⅡ』総評

 

The Last of Us PartⅡ』は正しく『The Last of Us』のPartⅡであった。単純な2ではなく前作を受けてあくまで地続きであることを強調するPartⅡ。疑問を持たれつつも理解を示されたPartⅠの続きを描くとすればエリーが自身の存在と向き合うのは必然でそれを描いた点で、PartⅡ本作は実に誠実であったと思うし、そこに許しの仮託という形で決着をつけたのは素直に賞賛する他ない。

 

しかし、私はやはり『The Last of Us PartⅡ』を手放しで賞賛はできない。したくない。それは前述したアビー編の存在。アビーは確かに魅力的なキャラクターだ。アビーに対する嫌悪感や憎悪をアビー編をやりきった最後まで同じ熱量で保てたプレイヤーはほぼいないだろう。それも当然でユーザーがアビーに対し同情し、共感を得る様に作られているからだ。

 

アビー編を経験することはゲームを進行するうえでの必須条件でそれはゲームというメディアの運命だ。プレイヤーはゲームを進行したい欲求とアビーに対する憎しみを天秤にかけさせられる。アビー編で嫌気がさしてプレーを止めた人もいるだろう。仮にアビー編を続けたとしてもプレイヤーを待っているのは憎しみを募らせ続けたかったアビーとの望まない和解(アビーをどこまで許せるかの程度の差はあれど)。しかもアビーはユーザーに好かれるべくかわいそうな過去を苦悩を大切な仲間を“持たされて”いた。

 

過度ともいえるこれらはエリーにとって許されない存在として描くアビーにとってはやりすぎたものであり、エリーの許しというテーマからは不純物でしかなかった。ごてごてと装飾されたアビーのキャラクター性とゲームを進めたいプレイヤーの気持ちを人質にとることで成立させたアビー編。PartⅠの結末に誠実であったPartⅡの脚本に対してこれらは本作を語るうえであまりにも不誠実ととらえざるを得ない。

 

こういった構成はあらゆる面で前作を愛したプレイヤーを挑発するものあり、やりすぎたものであった。衝撃的な脚本と構成はプレイヤーに対しての誠実さを残してこそ成立しうる。無駄に露悪的ととらえられるほどやりすぎた本作はその点で評価を落とさざるを得ないし、それはPartⅠの熱狂的なファンと言えるほどでない私にとっても同様であった。PartⅢへの含みを多いに示した本作であったが、どうかPartⅢがあるなら、脚本に対する誠実さと同じくらいプレイヤーへの誠実さをし望みたいと思う。

 

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ひとりになってしまったエリー。でもきっとこれからは大丈夫

 

PartⅢでそれを示せた時こそノーティードッグは「PartⅡを許せない。でも許したいとは思っている」プレイヤーに報いることができるだろう。

 

 

 

<了>